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帯広の夜道で、吉祥寺から始まった仕事の原点を思い出した

帯広のアイスホッケーショップの看板を見上げる男性

夜の帯広を走っていると、昼には見えなかったものが見えてくることがある。

居酒屋の明かりもそうだし、昼間は素通りしてしまうような店の存在もそうだ。

この日も、買い物へ向かう途中で、ふとアイスホッケーショップが目に入った。

見逃してもおかしくない場所だったのに、その夜はなぜか引っかかった。そして、その瞬間に思い出したのは、アイスホッケーそのものではなかった。

自分はアイスホッケーをやっていたわけではない。 でも、一時期、ホッケー関連の仕事に関わっていたことがある。

時期でいえば1993年から1995年ごろ。 場所は東京の吉祥寺だった。

きっかけは、アメリカ人が一人で起業した会社を手伝ったことにある。

今振り返ると、それは自分にとってかなり大きな出会いだったと思う。 当時の日本では、「外国人が一人で日本で商売を始める」というだけでも、どこか空気が違った。

しかもそれが吉祥寺という街にある。大企業でもなく、完成された組織でもなく、一人の起業家が何とか形にしようとしている小さな現場だった。

その仕事を手伝う中で、自分は商売の面白さに触れた。 ただ商品を売るというより、文化ごと運んでくるような感じがあった。

ホッケー用品を扱うこと自体も珍しかったが、それ以上に面白かったのは、北米とのつながりの中で仕事が動いていることだった。

そして、その延長線上で自分はインターネットに出会う。

当時、北米との通信費が毎月15万円ほどかかっていた。 今の感覚で考えるとかなり大きいが、当時はそれが現実だった。

国際通信を使ってやり取りをすれば、それだけでコストが膨らむ。海外とつながること自体が、まだ普通ではない時代だったのだと思う。

ところが1994年、インターネットのプロバイダーと契約したことで、その通信費が数万円で収まるようになった。これは大きかった。

単なる経費削減ではなく、感覚がひっくり返るような出来事だった。

え、こんなに変わるのか。 これからは、こういう時代になるのか。

たぶん、そういうカルチャーショックがあった。今ではネット回線は空気のようなものだが、当時は違った。

通信コストが一気に下がるということは、海外との距離感そのものが変わるということだった。

情報の流れ方も、商売の組み立て方も、全部変わるかもしれない。

そういう予感が、あの時期には確かにあった。そして1995年、自分は大阪でインターネットの会社を起業する。

あとから見れば、ホッケー関連の仕事とインターネットの会社は別の話に見えるかもしれない。

でも自分の中では、ちゃんと一本につながっている。吉祥寺でアメリカ人の起業家を手伝ったこと。 北米との通信費に苦しんだこと。 インターネットでそのコストが大きく変わったこと。

その衝撃が、そのまま次の行動につながった。人生というのは、あとから振り返ると因果関係が見える。

その最中にいるときは、ただ目の前のことをやっていただけなのに、時間がたつと「あそこが分岐点やったんやな」と思える瞬間がある。

帯広の夜道でアイスホッケーショップを見かけたとき、自分の中で戻ってきたのは、まさにその分岐点の空気だった。

若いころ、自分はまだインターネットの会社をやる人間ではなかった。

でも、すでにその入口の近くにはいたのだと思う。

異国の匂いがして、小さな商売があって、通信の不便さがあり、その不便さを一気に塗り替える技術が現れた。

その流れの中に、自分はいた。だから、あのホッケーショップの記憶は、単なる懐かしい話ではない。

今の仕事の原点に近い。夜の帯広には、不思議とそういう昔の記憶を呼び出す力がある。

買い物へ向かうだけの道なのに、昔の自分の時代まで連れていかれる。看板ひとつで、1990年代前半の東京や、通信費に驚いていた自分の感覚まで戻ってくる。

旅先で思い出すのは、その土地のことだけではないのだと思う。

その土地を歩きながら、自分の来た道まで照らし返していることがある。

この日の帯広は、そんな夜だった。 地方都市の夜の灯りの中で、吉祥寺から始まった仕事の原点を、少しだけ思い出した。

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